神様は見ている

全国的には全く有名ではないけれど、

父のお気に入りの画家であった古川道泰さんの

『神様が見ている』

という油絵が好きだった。

ずっと実家に飾ってあった絵は別のものだったのに、

一度だけアトリエにお邪魔したときに見たその絵とその言葉に、

強烈に惹かれたのを覚えている。

今週、

そのことをふと思い出した出来事があった。

きっかけはネットのニュース。

全国高校サッカーで、

石川県の星陵高校が準決勝に進出との記事。

その中で、

星陵高校の選手たちが、

ことあるごとに“(日本代表の)本田選手の星陵高校”と言われ続け、

“本田選手以来の快挙”と比較され続けてきたことが悔しく、

絶対に4強に勝ち上がって優勝までいきたいとあった。

その記事を読んだときは、

「なるほどなぁ、戦っているのは自分たちだから悔しいよなぁ」

くらいに思っていた。

ただその後にテレビで特集番組を見ていて驚いた。

準決勝に進出した4校を取り上げていた中での星陵高校の場面で、

4強進出を決めた直後の彼らのロッカールームが映し出された。

選手が口々に言う、

「よし、本田に並んだ!」「本田抜くぞ!」

と。

「えっ?」と思った。

誰も「さん」も「選手」もつけずに呼び捨てなのだ。

確かに「超えたくて超えたくてエネルギーに換えてきた」のだと思う。

きっと比較され続けてずっと悔しかったのだと思う。

ただ、

敬意や感謝心を失ってはいけないし、

そういった時にこそ本性が出るから自制して欲しかった。

「指導者は何をやっている」と怒りも生まれてきた。

僕にはその言い方から、

敬意を失っているどころか敵意を感じた。

「アイツの記録なんかに絶対負けないからな」という、

負のエネルギーを。

その時に、

「目線がそこなら絶対に優勝はしないだろうな」

と思った。

そして、星陵高校は準決勝で敗退した。

以前フェイスブックにも投稿した下記の記事のことも思い出した。

帝京大選手に「5流大学!」「クロンボ!」早大ラガーマンの誇りと品格どこへ行った

> コラムによると、

> 早大選手は「5流大学!」と帝京大側にヤジを飛ばしたほか、

> 真っ黒に日焼けした帝京大選手に「クロンボ!」と叫んだ。

> また、帝京のキャプテンが試合後、早大ベンチにあいさつに行くと、

> 早大のコーチは「あいさつなどいらない」と追い払ったという。

> 試合は、0対43で帝京に大敗していた。

この記事の真偽は定かではないけれど、

お正月の早稲田VS帝京も帝京の圧勝だった。

勝負の世界だからそんなことではなく、

単純な実力差が主因なのは当然のこと。

ただ、なんというか、

こういうことって蔑ろにしてはいけないんじゃないかと、

ずっと思ってやってきた。

先の星陵高校のケースも、

選手がまだ未熟なのはしょうがない。

問題なのはそういった言動を看過してきたコーチや指導者だと思う。

小さいながらも組織を預かる者として、

こういった事例を反面教師にしなくてはいけないと常々思う。

まだまだ全く何もできていないけれど、

前職でもある部署を新たにマネジメントさせてもらうことになった際に、

その部署で蔓延していた社内用語を即刻禁止にしたことがある。

聞く人が聞けば、

誤解を招く以上に、不適切な言葉だったからだ。

星陵高校のケースは電波を通じて知るところとなった訳だけど、

チーム内や社内で話している分にはわからないのかもしれない。

ただ、

『神様が見ている』

と僕は思う。

そういった言動が蔓延しているチームは、

絶対に一定以上の世界には到達できないと思う。

今思えば、

自分のこれまでの行動の源泉にその思想があった気がする。

「きっと神様は見てくれている」

そう思って、

大したことはないけれど、

それなりの努力をしてきた。

逆に苦境やピンチが訪れるたびに、

それまでの自分の行動を恥じ、

「あぁ、やっぱり神様はみているなぁ」と、

妙に納得できたことが多かった。

誰に見られるとか聞かれるとかではなく、

日常の何気ない言葉遣いに注意し、

口には出さなくとも、

未熟さゆえに心の中に生まれてしまう負の感情を、

とにかくコントロールしていきたい。

そういう自分でいたい。

まだまだ未熟だけれど、

真っ直ぐに努力を続けていきたいと思う。

神様は、

きっと見ているから。

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